キリストの十字架

 十字架は教会やキリスト教の象徴となっていますが、なせそうなったのでしょうか?以前、話題になった「パッション」という映画を見られたでしょうか?見られた方々の多くは「むごすぎた」と反応したようです。確かに、大変「むごい」映画であったと思いますが、十字架での死刑はそこに描かれたように、事実大変むごいものでした。

 しかし、死刑のために使われたこのむごい十字架が、なぜキリスト教や教会の象徴となったのでしょうか?それは、キリストが十字架上で死なれ、その死によって私たちの罪の罰を代わりに受けて下さったからです。私の罪のために死なれ、私が受けなければならない裁きを代わりに受けて下さったキリストを救い主と信じる者は、一人残らず、罪赦され、永遠のいのちをいただけるのです。聖書に「神は実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛され。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネの福音書3章16節)と記されているように、クリスチャンにとって、十字架でのキリストの死は救いと永遠のいのちを与えて下さるのです。一言で言えば希望を与えて下さるのです。

 「希望」と言いますと、びっくりしますか?「十字架に希望をなぜ見い出すのか」と聞かれますか?しかし、キリストは十字架で死に、葬られ、それから三日目に死に打ち勝ち、よみがえられたのです。「そんなバカな!」とおっしゃいますか?でも、よみがえったイエス・キリスト見た人々も多くいて、その体験について書き残して下さったのです。聖書の福音書などにキリストの復活、またその後のことについて詳しく書いてあるのです。例えば次のように聖書には書いてあります。「キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書にしめすとおりに、三日目によみがえられたこと、また、ケパ(ペテロ)に現れ、そえから十二弟子に現れたことです。その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。」(1コリント15章3~6節)

 そうです、イエス・キリストは死に打ち勝ち、よみがえったのです。そして、今も生きておられるのです。またそれだけではなく、主を信じる者(クリスチャン)にも死に打ち勝つ希望を与えて下さるのです。「『死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ、おまえのとげはどこにあるのか。』死のとげは罪であり、罪の力は律法です。しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。」(1コリント15章55~57節)というすばらしい聖書の約束が与えられているので、クリスチャンは死んでも、死に打ち勝ち、よみがえる希望をもっています。 そこで、多くのクリスチャンの墓には十字架が立っています。あのむごい死刑の場(十字架)が希望に満ちあふれる場と変わったのです。

 あなたも、イエス・キリストを救い主として信じることにより、死の恐怖から解放され、死ぬときの備えができ、死に打ち勝つ希望をもてるのです。聖書には「もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせて下さったと信じるなら、あなたは救われる・・・人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。・・・『主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる』のです。」(ロー マ10章9~13節)と記されています。先ず、自分の罪を認め(イエス・キリストが十字架上で死んで下さったのは私たちの罪の裁きのためでした)、真の神 様に自分の罪の赦しを祈り求め、キリストを救い主として信じ受け入れるなら、真の神様はあなたの罪を赦し、あなたに永遠のいのちを与えて下さいます。そう したら、あなたにとっても、あのむごい十字架は希望に満ちたものと変わり、今の人生にも、死に直面するときも、希望をもって歩めます。