聞いてみたかった、あのこと、このこと・・・

1・アガペーって

 「アガペー」とは、ギリシャ語(新約聖書の言語)の言葉で、「愛」という意味です。聖書の中で「愛」と訳されているギリシャ語の言葉が幾つかあります。そ の内の「アガペー」は生ける神の無条件の愛を指している、すばらしい言葉です。あなたも神の愛を味わい、知る事ができるように心から祈っています。

2・バプテスト教会って

 「バプテスト教会って?」と良く聞かれる。キリスト教会なのか、変わったカルトなのか、良く解らない方も少なくない。しかし、バプテスト教会とは歴史の長い、 キリスト教の正統的な宗派である。日本では聞き慣れないかもしれませんが、海外では良く見かける教会あり、アメリカでは最も多い宗派である。

♦バプテスト教会の歴史♦

 バプテスト教会の歴史は少なくても17世紀のイギリスから始まる。しかし歴史の見方により、それ以前からヨーロッパにあった、アナバプテスト(「アナ」と は再と言う意味)にそのルーツを見いだせる。また、その以前からもバプテストの名を使わないにしろ、聖書にのみ立つ、バプテスト的なグループはキリスト教 の歴史のどの時代にも見られる。

♦日本でのバプテスト教会の歴史♦

 1873年に来日したバプテスト宣教師から、日本でのバプテスト教会の歴史が始まる。同年には横浜第一浸礼(バプテスマを漢字で表すと浸礼となる)教会を設立され、これは日本における二番目のプロテスタント教会となった。
 当教会は日本バプテスト・バイブル・フェロシップというグループと交わりをもっている。戦後間もない1949年に、米国から来日した宣教師により、日本バプテスト・バイブル・フェロシップが始まり、今では北海道から沖縄まで90ほどの教会が共に日本伝道に励んでいる。当教会の信じている事をもっと詳しく知りたい方は、ここをクリックし、採用している信仰箇条をご覧下さい。

♦バプテスト教会の8つの特徴♦

1・聖書の権威・・・

信仰と行動の基盤は聖書です。伝統も経験も理性も、神様のお言葉にとってかわることは出来ません。

2・地方教会の自治・・・

教会の全会衆が神様のみ前に責任を負うのです。会衆政治と言われることもあります。教会の上に他のどのような制度も監督機関も持ちません。

3・全信徒が祭司・・・

祭司は神様と人間との間に立って、とりなすのです。ここには責任と共に祝福と特権があります。

4・二つの礼典・バプテスマと主の晩餐・・・

新約聖書にはこの二つ以外に礼典は記されていません。バプテスマは信者の全浸礼によるものです。主の晩餐は主の十字架上での死を記念するものです。いすれも「秘蹟」も「恵みの手段」も加えられません。

5・個人の良心の自由・・・

人間は個人性をもって神様に創造されました。このゆえに個人の意志と責任が重視されます。信仰を進めるが、強制できるものではなく、強制すべきものでもありません。

6・救われて、バプテスマの授かった者のみが教会員となる・・・

イエス・キリストを自分の救い主と告白し、その告白に基づいてバプテスマを授かり、聖書の教に従う意志の表明、教会の教理と標準とに賛成する人々が教会員となります。

7・二つの職務・牧師と執事・・・

両者とも会衆によって賛同を受け、選ばれます。

8・国家(政治)と教会の分離・・・

この原則は聖書のマタイ伝22章に教えられています。神様は地上に三つの組織を創立なさいました。家庭、教会、国家です。この一つ一つはその範囲の中に果たすべき使命をあたえられています。

関連リンク・フリー百科事典『ウィキペディア』・バプテスト教会

3・信者ではありませんが、教会にいっても宜しいでしょうか?

 もちろん、大歓迎です。定期集会もそれ以外の時も(留守の場合もありますので、お電話を)、ご来会を歓迎いたします。御悩めで相談したい方も、聖書を学びたい方も、キリスト教についての質問のある方も歓迎です。ぜひ、一度お寄り下さい。

4・教会に行くことにより、ご利益があるのでしょうか?

 一般的に言われている家内安全、交通安全、商売繁盛などのようなご利益は約束していません。人は苦難の無い人生を願うので、ご利益を約束する宗教が多いのですが、聖書の視点は違います。苦難は成長する貴重な機会であり、特に避けるべきものでは無く、むしろそれを生かすようにと聖書は教えておられます。ですから、苦難の無い生活を目指すのではなく、天の神様と隣人の助けによって苦難を乗り越えるよう、聖書は勧めておられるのです。一般的に言われているご利益を約束していませんが、それにまさるものが与えられるのです。それにまさるものとは、キリストを最良の友とし、キリストとの交わりにより、人生を新たにする事です。

5・十字架はなぜキリスト教の象徴となっていますか?

cross 十字架は教会やキリスト教の象徴となっていますが、なせそうなったのでしょうか?何年か前に話題になった「パッション」という映画を見られたでしょうか?見られた方々の多くは「むごすぎた」と反応したようです。確かに、大変「むごい」映画であったと思いますが、十字架での死刑はそこに描かれたように、事実大変むごいものでした。

しかし、死刑のために使われたこのむごい十字架が、なぜキリスト教や教会の象徴となったのでしょうか?それは、キリストが十字架上で死なれ、その死によって私たちの罪の罰を代わりに受けて下さったからです。私の罪のために死なれ、私が受けなければならない裁きを代わりに受けて下さったキリストを救い主と信じる者は、一人残らず、罪赦され、永遠のいのちをいただけるのです。聖書に「神は実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛され。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネの福音書3章16節)と記されているように、クリスチャンにとって、十字架でのキリストの死は救いと永遠のいのちを与えて下さるのです。一言で言えば希望を与えて下さるのです。

「希望」と言いますと、びっくりしますか?「十字架に希望をなぜ見い出すのか」と聞かれますか?しかし、キリストは十字架で死に、葬られ、それから三日目に死に打ち勝ち、よみがえられたのです。「そんなバカな!」とおっしゃいますか?でも、よみがえったイエス・キリスト見た人々も多くいて、その体験について書き残して下さったのです。聖書の福音書などにキリストの復活、またその後のことについて詳しく書いてあるのです。例えば次のように聖書には書いてあります。「キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書にしめすとおりに、三日目によみがえられたこと、また、ケパ(ペテロ)に現れ、そえから十二弟子に現れたことです。その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。」(1コリント15章3~6節)

そうです、イエス・キリストは死に打ち勝ち、よみがえったのです。そして、今も生きておられるのです。またそれだけではなく、主を信じる者(クリスチャン)にも死に打ち勝つ希望を与えて下さるのです。「『死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ、おまえのとげはどこにあるのか。』死のとげは罪であり、罪の力は律法です。しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。」(1コリント15章55~57節)というすばらしい聖書の約束が与えられているので、クリスチャンは死んでも、死に打ち勝ち、よみがえる希望をもっています。 そこで、多くのクリスチャンの墓には十字架が立っています。あのむごい死刑の場(十字架)が希望に満ちあふれる場と変わったのです。

あなたも、イエス・キリストを救い主として信じることにより、死の恐怖から解放され、死ぬときの備えができ、死に打ち勝つ希望をもてるのです。聖書には「もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせて下さったと信じるなら、あなたは救われる・・・人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。・・・『主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる』のです。」(ロー マ10章9~13節)と記されています。先ず、自分の罪を認め(イエス・キリストが十字架上で死んで下さったのは私たちの罪の裁きのためでした)、真の神 様に自分の罪の赦しを祈り求め、キリストを救い主として信じ受け入れるなら、真の神様はあなたの罪を赦し、あなたに永遠のいのちを与えて下さいます。そう したら、あなたにとっても、あのむごい十字架は希望に満ちたものと変わり、今の人生にも、死に直面するときも、希望をもって歩めます。

6・イエス・キリストが歴史上の人物であるという証拠は聖書のほかに何かありますか?

 歴史家は、イエス・キリストの生涯の詳細について議論しますが、歴史上の実存についてはほぼ一致しています。下記にその幾つかの理由を上げます。

♦古代歴史家の認証♦

一世紀ごろの歴史家たちの何人かがイエス・キリストの十字架刑について書いています。例えば、古代世界の歴史家の一人とみなされている、一世紀のローマ人タキタスです。タキタスは「クリストス」(キリストの意味のラテン語)について「このクリストスはチベリウスの治世にポンテオ・ピラトの下で苦しみにあった」と書いています。また、ユダヤ人の歴史家フレバス・ヨセファス、皇帝ハドリアンの書記長スエトニウス、バビロンのタルムードなども、イエス・キリストの教え、活躍、十字架刑などについて書き留めています。

♦ユダヤ民族の認証♦

ユダヤ民族は、神の約束により、自分たちの中からメシヤ(救い主)が現れることを期待していました。しかし、イエスをメシヤ・神の子としては認めず、生ける神の名を詐称する冒涜者として十字架にかけました。それでもユダヤ民族は、イエス・キリストをメシヤとしては否定しつつも、歴史上の存在では否定していません。このように、ユダヤ民族もイエスが歴史上の人物であった事を認証しています。

♦弟子たちの認証♦

「聖書のほかに」という条件でしたが、最後に聖書の認証も加えたいと思います。新約聖書のほとんどは、イエス・キリストと共に歩んだ弟子たちなどによって書かれています。また、イエス・キリストの生涯が閉じられてから、百年もたたないうちに完成されています。ですから、イエス・キリストを直接見聞きした人たち自身によって書かれたと言えます。当時の地名、支配者名、など正確に記されている書物です。そのような点からも、聖書そのものも歴史的に信頼できる書物であると言えるのではないでしょうか。

 結局、イエス・キリストについて多くの意見もありますが、歴史的実存については多くの証拠があり、否定する人々もまれです。

7・「イースター」って?

 数年前から、一部のお店によっては春に「イースター」や英語で「Easter」の文字を見かけるようになりました。お店で見かけるものがチョコ、キャンディ、お菓子類などなので西洋の春祭りの一種と勘違いする人も多いでしょう。しかし、本来「イースター」とはイエス・キリストの復活を記念し、お祝いするときです。

 キリストは、私たちの罪のために十字架上で死なれ、私たちの罪の裁きを負われたのです。通常でしたら、そこでお話が終わりになりますが、墓に葬られたキリストは3日目によみがえられたのです。そして、弟子たちに現れ、40日間共に過ごされ、その後、天に戻られたのです。

 私たち一人一人は、いつか死にます。死に打ち勝てる人は一人もいません。しかし、「『「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。』死のとげは罪であり、罪の力は律法です。しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。」(聖書より)とあるようにキリストは死に打ち勝ち、その勝利を信じる私たちに罪からの許し(永遠の命)を与えて下さるのです。

 日本で「イースター」という言葉を見かけるようになったのはごく最近のことですが、クリスチャンは昔からキリストの復活を記念し、お祝いしてきました。キリスト教にとり、イースターはクリスマスに負けないむしろそれ以上の大事なお祝いのときです。ぜひ、イースターを機会に教会にお越しください。

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